Harumi Fujimoto
1927(昭和2)年神戸生まれ。小川洋裁学院卒業後、東京・神田駿河台にある文化学院美術部へ。1954(昭和29)年、神戸に「オートクチュール・マーガレット」をオープン。以後、神戸のファッションシーンで多大なる功績を残す。西陣織や友禅染など、日本の伝統的な生地を用いたドレスを作るのをライフワークとし、1997(平成9)年70歳でパリオートクチュールコレクションに参加。以後、モナコ、ニューヨーク、イタリアでショーを開催し、成功を収める。2018(平成30)年、91歳で21年ぶりにパリでショーを開催。神戸新聞文化賞、神戸市文化賞、ブルーメール賞、ロドニー賞、神戸市産業功労賞、令和元年度高齢者特別賞を受賞。 ついに!「Rockな人々」(誰にも頼まれていないけど)関西へ進出!
第五回のゲストは兵庫県神戸市在住のデザイナー・藤本ハルミさん。
1927(昭和2)年神戸市に生まれたハルミさんは(取材当時)現在92歳!
ハルミさんは子どものころからあまり変わらないのだろうか?早速質問してみることに!
元気いっぱい!子分を引き連れて遊んだ幼少期
-ハルミさんはどんなお子さんだったんですか?
元気やったね。なんでもしてたよ!私、たくさん男の子の子分がいて陣地取りしたり、缶蹴りしたり。
-子分!!!(笑)
小学校に入ったころ、男の子ばかりが遊びに来るので母がびっくりしたと言ってたわ(笑)
私が小学校2年生のころかなあ、級長の男の子が大柄でわりと男前で。私は副級長だったんだけど、その男の子がボンボンですぐ泣くのよ!「だから私が守らないかん」と思ってサポートしたわ。あべこべやね(笑)
-光景が目に浮かびますね(笑)家の中で遊ぶことは?
私が机の前にいて「おとなしいなと思ったら絵を描いてた」って母がよく言ってたわ。あとは、着せ替え人形をつくったりしてね。
-絵を描くようになったのはご両親の影響で?
特別そんなことはないわ。
-ご両親はどんな方々だったんでしょう。
父は埼玉生まれの神田育ち。江戸っ子でオシャレだったわ。よくお祭りや歌舞伎の話をしてくれた。
白い麻にモールが何本もついた船長服を着ていた時に「うちのお父さん、ピンカートン※みたいや!」って言ったら母が「持つべきものは娘やねー」と言って笑ってたよ(笑)
※プッチーニの歌劇「蝶々夫人」の登場人物。アメリカの海軍士官。
母はとっても読書家で音楽が好きだった。母もオシャレやったね、お正月の晴れ着も。よそのお母さんは着物と羽織を着せてた。でも母は練習して、二枚重ねの着物に帯付をお正月の時に上手に結んで着せてくれたの。数は少なくてもいいから「いいものを買いそろえなさい」って言ってた。
私がファッションを好きで今もやっているのは、やっぱり両親の影響があるわね。
-やっぱりご両親はとってもオシャレだったんですね!
そういえば、ご両親は「なんでもやりたいことをやれと応援してくれた」とパーティーでハルミさんはおっしゃっていました。
そうね、両親は今でも尊敬してるわ。考えてみたら、両親が教えてくれたことを実践して生きてきたわね。
母はこんなことを言ってた。「腹が立って怒ってる時、相手にカッとして怒りをぶつけてはいけない」と。
「怒りをぶつけたらそれに反発するだけ。時間を置いて、怒りがおさまったら冷静に相手と話をしなさい」と言うてた。母から言われたことを実践していたから、私の店の子はみんな長いこと続いたのよ。
幼いころから男の子の友達(子分)も多く、リーダーシップを培ってきたのがわかるエピソードだ。
舶来品に触れて育った幼少時代
-子どものころ、印象に残っていることは何ですか。
祖父と父、二代続けて船乗りで。だから今では当たり前だけど、戦前にはめずらしく和室に絨毯やソファーを置いてお客さまをもてなしてた。家に来るお客さまはほとんど船乗りでしょ?だからロンドンやロス、アムステルダムとか世界の港の名前が飛び交っていたわ。
-へえ~!戦前に外国に行った人の話を直接聞くことができるってすごい。貴重な体験だし、ワクワクしますね!
当時、家には船乗りだった父が外国で買ってきためずらしいものやいただきものがあったのよ。モンキーバナナが台所の天井から何本もつるされていたり、ホワイトホースやオールドパー(スコッチ・ウイスキー)なんかの洋酒の瓶もあったりね。パパイヤなんかもそのころから食べてたわ。
ハルミさんは何かに誘われるといつも「行く!」と言っていたそうだ。昔から好奇心旺盛だったのがわかる。
-4人兄弟の長女ですが・・・ほかのご兄弟(の性格)は?
みんな性格は違うね。私は誰か来ると「わー、おじちゃん!」って走って行くような子だったけど。妹たちははずかしいからパーッと部屋に隠れてしまうようなね。
戦前、最新の情報や舶来品が往来していた神戸。当時、一般的には聞く機会がない海外の話を聞き、実際に食べたり、使ったりする。誘われたら「行ってみる」。 そういった好奇心旺盛な性格とオープンな港町・神戸がハルミさんの“グローバルな視点”を育んだのだろう。
空襲で焼き尽くされる神戸の街を見つめて
1945(昭和20)年3月17日未明。神戸は大空襲により全市が壊滅した。
-高校卒業後、小川洋裁学校に行こうと思ったのはなぜですか?
自分が一番好きな服を着たいから(笑)小さいころからオシャレが好きやったし、服について文句を言うから、母に「自分でつくりなさい」と言われたのもあったわね。 -以前取材した笹本恒子さんも洋裁を習っていらっしゃいました。
当時は空襲で丸焼けになって着るものがないから。みんな自分の着るものをつくるために習ったのよ。ちゃんとした学校じゃなくても、夜間に4~5人教えるところに行ったりね。
小川洋裁学校を卒業後、ハルミさんは東京神田にある文化学院美術部に入学。当時の東京はどんな様子だったのか。 焼け野原でめちゃくちゃだったよ。新宿も伊勢丹が焼け残ってポツンと建ってたくらいで。
東条(英機)さんが戦犯として死刑が決まり巣鴨に移送される時、高田馬場(諏訪町)のロータリーに見に行ったら大勢の人が集まってた。年配のおばさんたちは「わたしたちの代わりに」「あの人が犠牲になってくれている」と言って拝んでたわ・・・。あの時の光景は今でも忘れられないですね。
「人生でスポットライトはいつ当たるかわからない」 忘れられない恩師の言葉
文化学院を卒業する前、ハルミさんのお父さんが病に倒れたため急遽神戸へ戻ることになった。
すると、同校の板倉ユリ先生が「人生はいつスポットライトが当たるかわからない。若い時もあれば年を取って当たる人もいる。だけど若い時にスポットライトが当たっても、才能がないとその光は消えてしまう。今はお父さんの看病をする時かもしれない。東京に来たらいつでも力になるよ」と励ましてくれたそうだ。
結局、神戸に根を下ろすことになったが「ありがたいなあと思ったわ」「今でも忘れられない」とハルミさん。
ハルミさんはずっと独身。当時から「ずっと仕事をして自立したい」と思っていたのだろうか。
全然思ってなかったわ。平和で理想的な家庭に育ったから普通にお嫁に行くと思ってたけど、家の状況がそんな(働かないといけない)状況になったから。結婚のチャンスはたくさんあった。お見合いもいっぱいしたわ。
でもお見合いして条件だけでね、冷静に計算して「この人でいいか」という結婚はしたくないと思ったわけ。「この人と死んでもいいわ」というぐらいの人と結婚したかったの。でもそういう人に出会わなかったね。何人か口説いてくれる人もいたけど。
店は流行って仕事もうまいこといってるでしょう。だからおもしろいわね。それで「この人と結婚したらもの足りんなあ」ってね。
「人生でいつスポットライトが当たるかわからない」とは、いい言葉だなあと思う。インタビューをしていた自分が励まされた。のちに判明するが、ハルミさんは恩師の言葉を体現している人でもあるのだ。
伝統的な西陣折りや京友禅で現代的なドレスをつくる
-ライフワークとの出会い-
1966(昭和41)年、ハルミさんは39歳の時にヨーロッパに旅立つ。店を経営し、家計を支えることが使命だったが両親を看取り、「自分への褒美だった」という。 フランスですれ違う現地の人々はメリハリがある体型で曲線的。一方日本人は厚みがなく、身体の線がなだらかでやさしい。初めての海外旅行で体型の違いを目の当たりにし、カルチャーショックを受けた。 そこでハルミさんは「日本人の体型を生かす型、伝統的な西陣折りや京友禅を使い、現代的なドレスをつくろう」と決意した。ライフワークとの出会いだ。
1968(昭和43)年、神戸で伝統的な西陣折りや京友禅を使ったドレスのショーを開催し、評判に。以後、ハルミさんはみんながドレスアップをして出かけることができるショーやイベント、パーティーを開催し、神戸のファッション界を牽引してきた。
神戸といえば“オシャレな街”というイメージだが、この礎を築いたのがハルミさんなのだ。
70歳でスポットライトが!憧れの地・パリでファッションショーデビュー!
1995(平成7)年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生し、ハルミさんの自宅は全壊。背骨を陥没骨折しながらも、隣に住む大学生に救助された。その時に「ああ、まだ自分にはやることがあるんだと思った」と語る。
1997(平成9)年、ハルミさんが70歳の時。ついに“スポットライト”が当たる時が来た。
きっかけは1人の女性との出会い。 神戸市はファッションイベントの一事業としてデザインコンテストを開催し、グランプリ受賞者はフランスのオートクチュール校・サンディカルに留学していた。
1995年ごろハルミさんの作品を見たソーラさんは「世界の文化遺産ともいえる伝統の着物地や帯地を現代に生かし、未来に伝える伝承者だ」と絶賛。
これがきっかけとなり、1997(平成9)年、「フランスにおける日本年」の一事業としてパリでオートクチュールコレクションに参加することに。オーガナイザーには渡仏歴20数年、オートクチュールの世界で働いていた経験があるグラン昭子さんが担当した。
-ハルミさん、フランス語は・・・
全然!戦中派だもの。でも人間同士だから分かり合えると思ったし、「郷に入れば郷に従え」で現地のスタッフを使おうと決めたのよ。
元ジバンシイ社の優秀なスタッフがショーのために集結した。しかし、性格も能力もさまざま。日本人はなんでも謝ってしまいがちだが、フランス人はミスや間違いがあっても謝らない。
これは前述の“お母さんの教え”によるものではないか。 国籍は違えども「ファッションが好き」という気持ちは同じ。フランス人スタッフと団結し、ショーは大成功。評判を呼び、以後モナコ、ニューヨーク、イタリアにも招待されライフワークを発表した。
日仏友好年である2018(平成30)年、「ジャポニズム2018:響き合う魂」の一環として21年ぶりにパリでショーを開催。なんと、当時ハルミさんは91歳!・・・年々パワーアップをしているのが本当にすごい!
-デザインのアイデアが出てこない時はどうしているんですか?
友達に会ったり、映画やテレビを見たり。もう考えるのをやめちゃう。
私は最初に素材の布を探すわけ。その中で「これ好き!」と思ったら(服を)つくるわね。見つからなかったら「今日あかんかった。また行けばいい」って。
-ハルミさんは落ち込んだ時、どうやって気持ちを切り替えていますか?
落ち込まへんね、全然(笑)
50年来の知り合いから「先生が落ち込んだのを見たことがない」と言われたわ。
弱っているのはカゼを引いている時だけかな。仲よしの知人男性に「今日ぐらいの感じがええなあ」って(笑)
-カゼを引いてちょうどいいと(笑)最後に「Rockに生きたいけど勇気が出ない」という
人にメッセージを! やっぱり自分の精神ですよ。自分が肝心。“弱い自分”と“強い自分”が対決して会話ができるように。「いこか」「でもはずかしい」「でもやっぱりいこか」って。そんなん、誰にだってあると思うよ。
人間は出会いによって影響を受け、大人になると思うの。だから出会う人や環境・教育も大切ね。
取材後記
阪神・淡路大震災に遭い、背骨陥没という大怪我を負いながらも2年後、70歳の時にパリオートクチュールコレクションデビューを果たしたハルミさん。91歳で21年ぶりにパリでショーを開催する不屈の精神に感銘を受けた。
ハルミさんはオシャレをして出かけられるような機会を提供し、神戸のファッションに貢献してきたことを知った。出かける場所や機会がないと、ステキなドレスやアクセサリーの出番はないのだ。これは非常に重要なことだと思う。年齢を重ね、ますますパワーアップしているハルミさん。新作が待ち遠しい。
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