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極彩色と無限のエネルギーで見る者を圧倒するアーティスト・84歳田名網敬一



1936年東京都生まれ。武蔵野美術大学を卒業。1991年より京都造形芸術大学(現京都芸術大学)教授を務める。1960年代より、グラフィックデザイナーとして、映像作家として、そしてアーティストとして、その境界を積極的に横断して制作活動を続け、現代の可変的なアーティスト像の先駆者として、世界中のアーティストたちに大きな影響を与えている。近年の主要な展覧会として、「International Pop」(Walker Art Center, Dallas Museum of Art, Philadelphia Museum of Art, アメリカ, 2015-2016)、「The World Goes Pop」(Tate Modern, ロンドン, 2015)、「Japanorama. A new vision on art since 1970」(センターポンピドゥー・メッス, フランス, 2017)、「Hello World. Revising a Collection」(Hamburger Bahnhof – Museum für Gegenwart, ベルリン・ドイツ, 2018)、「Keiichi Tanaami」(K11 Art Foundation, 広州・中国, 2018)など多数。また、MoMA(アメリカ)、Walker Art Center(アメリカ)、The Art Institute of Chicago(アメリカ)、M + Museum for Visual Culture(香港)、National Portrait Gallery(アメリカ)、Nationalgalerie im Hamburger Bahnhof(ドイツ)といった世界中の著名美術館が、近年新たに田名網作品の収蔵をしている。


◆個展「記憶の修築https://nug.jp/ja ※入場無料

「NANZUKA (ナンヅカ)」(Shibuya 2-17-3) 2020年7月11日 ~ 8月8日(土)

/第二部8月18日~9月12日


「2G(ツージー)」(Shibuya PARCO) 2020年7月4日(土)~7月26日(日)


2019年夏に起きた衝撃。それは、ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)で開催された「田名網敬一の観光」だった。プリント・アニメーション・立体と多彩な作品を見るうちに鮮やかな極彩色(ごくさいしき)の世界へと誘われた。


あの夏から1年。

ついに「Rockな人々」で田名網さんの取材が実現することに!


田名網さんは現在84歳。絵画、映像、立体などの新作を発表し、縦横無尽に活躍している。Paul Smith(ポール・スミス)、ユニクロ、adidas Originals(アディダス オリジナルス)、Beams T(ビームス T)などアパレルとのコラボも多い。


近年作品のエネルギーはますます増大し、生命力に溢れてみずみずしい。エネルギーの根源は何なのか。


田名網さんの秘密を知りたい。


「生と死」「あの世とこの世」をつなぐ橋が好き


渋谷にあるギャラリー「NANZUKA」で田名網さんにインタビューを行う。


温室を模した立体作品+田名網さん。静かな中にどこか凄みを感じさせる佇まい!  Photograph by Hiroko Muto

新作個展「記憶の修築」は幼少期に戦争を経験した田名網さんの記憶と、創作活動のメカニズムを視覚的に暗喩した(明示せずにたとえること)展覧会のシリーズだ。立体やコラージュ作品、ミクストメディア(2種以上の素材や技法を組み合わせること)ペインティングなどの新作が登場する。


自身がデザインしたポップなマスクが似合いすぎる! Photograph by Hiroko Muto


温室内には巨大な太鼓橋が組み合わされていますね。


橋は「生と死」「あの世とこの世」をつなぐもの。江戸時代の浮世絵も「現世と来世」をつなぐものに見立てているわけです。昔は歌舞伎も河原乞食といわれ、橋の下で公演してた。橋には人間のドラマが内包されてる。だから橋はおもしろい。

橋は頻発に田名網さんの作品にとって重要なモチーフの1つ


温室の中にはアメリカの雑誌『LIFE』やおもちゃの戦闘機、ピカソの模写、日記、スクラップブック、ドローイング、映像作品、マリオネットの田名網人形など自身の作品や影響を受けたものが詰め込まれている Photograph by Hiroko Muto


「出征して亡くなった叔父は今でいうオタク。その時代ではめずらしくモダンな人で映画雑誌やポスター、絵葉書、新聞の切り抜きなんかを大量に集めてた」と田名網さん。


温室には叔父さんの貴重なコレクション(一部)も! Photograph by Hiroko Muto


田名網さんは子どものころから大人になった今でも歴史的事件、映画スターなど自分が好きなもの、影響を与えたものを切り抜き、ノートにコラージュしてきた。温室にはノートが100冊ほど入っている。おもちゃ箱のような温室は、田名網さんの脳内そのものなのだ。


モノクロの世界で独自の色彩感覚を育んだ幼少期


田名網さんは1936(昭和11)年東京・京橋の服地問屋に三人兄弟の長男として生まれた。小さいころからろう石でアスファルトの道に絵を描いていたという。

家族や親戚に芸術家はいないが、納戸には出征した叔父さんのコレクションが大量にあった。つまり、身近にポップカルチャーが存在したといえる。

祖母には止められていたが、家族の留守を見計らってこっそりコレクションを見るのが最大の楽しみだった。


「祖父が一代で築いた服地問屋は現在の日本橋高島屋の裏にあった。当然、遊び場は高島屋。買い物に来る客を見たり、エレベーターに乗ったりして遊んでいた」 Photograph by Hiroko Muto


店の建物は3階建て。1階は店、2階は住居、3階は倉庫だったという。店はスーツの裏にはるタグに刺繍する仕事もしていた。今とは違い、昔のタグは名刺大ほどのサイズ。名前だけでなく、金糸銀糸で刺繍をした絵があって豪華だったそう。当時は派手なものをチラリと見せるのが粋でステータスだった。


戦争中はね、家庭や環境の中に色彩がなかったわけ。雑誌とか絵本もないし。だから色彩世界を目にすることがほとんどなかった。家は京橋で服地の問屋をしてたから、倉庫には洋服が山積みで。だからモノクロの世界で洋服が唯一の色彩だった。

店が繁盛し、自宅が目黒駅近くへと引っ越した。しかし「父親の放蕩により店が持ちこたえられなくなり、母方の実家である白金に移った」とのこと。

田名網さんは目黒と白金で空襲を体験している。


「過去の記憶をたどると、一番衝撃的なのは戦時中に死体の山を見たこと。戦争中はアメリカの飛行機が爆弾を落として、家が焼かれるのが日常だった」 Photograph by Hiroko Muto

空襲が来るのは大体暗くなってから。夜なのよ。飛行機が去って防空壕から出てくると、爆弾で焼かれた人、ケガをしている人、泣いている子どもがいて。死体がゴロゴロ転がってるわけ。だからどんなショッキングなことが起きてもさ、戦争の経験に勝るものは僕の人生の中にはない。


美しく妖しくゆらめく金魚


白金の家には祖父が所有する畳一畳ほどの大きな水槽があり、趣味で金魚を養殖していた。B-29が照明弾を落とすと、金魚のうろこに反射して光る。直後に焼夷弾を落とすとさらにパッと明るくなり、水槽で泳ぐ大量の金魚を照らす。


巨大な水槽いっぱいにゆらめく金魚。「それは映画のスクリーンのように見えた」Photograph by Hiroko Muto

金魚は強烈な記憶として脳内に留まり、以後作品のモチーフとして頻繁に登場するPhotograph by Hiroko Muto


田名網さんは疎開先の新潟県南魚沼市六日町で数年過ごして終戦を迎え、9歳の時に帰京。

少年時代はドクロがヒーローの紙芝居『黄金バット』や絵物語『少年王者』に熱中した。アメリカのB級映画を中心に年間500本を鑑賞。紙芝居と映画はのちの作品の大きなテーマになる。


コロナをきっかけに変わったこと


田名網さんはコロナにより死生観が変化したのだろうか。

当然コロナの背景にも死はあるわけです。だからとても重要なテーマです。でも僕は、戦争を経験して子どもの時から人間の死を身近で直視してきた。人間は必ず死ぬんだ。幼児期の脳内に深々と沈殿してしまったわけです。


マスク着用・アクリル板を使用するなどコロナに配慮して取材を行った Photograph by Hiroko Muto

「死を意識することは、生きること。その強力なエネルギーになるわけです。僕の年齢になると死は目の前の壁としていつも存在していて、生きようとする身体に無言の圧力を加えてくるわけです。それと、歓喜の瞬間は自己消滅に似ているといわれますが、死自体が性的興奮をもたらすものかもしれません。死を考えると寝られなくなりますね」 Photograph by Hiroko Muto


1996(平成8)年に出版された著作『100米の観光』(筑摩書房)に“毎日夜の8時から12時に決まった場所決まった時間に過去の自分と対峙する”とあるが、現在はどうなのか。尋ねてみると、「今は1日1時間散歩をするくらい。特に決まったコースはなく、本屋に行く程度」とのこと。コロナでもこの習慣は変わらないそうだ。

コロナの期間中にいろんな展覧会とか仕事が全部ストップしたじゃない。その期間に新しい作品にチャレンジするっていうのが、どうもピンとこなくて。それで「何かしようかな」と暇だから思ったんですよ。


昔から好きだったピカソの絵「母子像(Mere et enfant 1943)」を模写してみようと思ったわけ。模写なら何も考えたりしないから塗り絵みたいなものじゃない。描いてみたらおもしろいんで、100枚描こうかなと思って。50枚くらい描いた。好きな絵を模写すると、気持ちが落ち着くのね。


ピカソの模写は作品にもよるが、1枚描くのに3~4日はかかる Photograph by Hiroko Muto


要するにね、写経と同じような感覚なのよ。毎日ピカソの同じ絵を模写する。

だけど、日によってその模写は段々変化していくの。体調にもよるしね。毎日描き続けたらどうなるかと思って実験してるわけ。

-田名網さんの本には「実験」という言葉がよく出てくる気がします。


初めてやることって何でも実験じゃない?ピカソの模写だって写経のように絵を描くっていう、初めての経験も実験だから。


初めての体験。それは時にためらってしまうことも多い。だが、田名網さんは多くのアパレルやアーティストとコラボする。 “実験”をためらわないのがロックだ。

年齢を問わず、さまざまなジャンルで活躍する友人も多数。新たなことに挑戦し続ける姿勢が作品のみずみずしさにつながっているのではないか。


「今も絵を描くことに後ろめたさがある」


-「絵を描くことに後ろめたさがある」「自分の仕事に自信がない」というのは本当ですか?


絵をやることに母親と親戚一同が大反対したの。今と時代が違うし、世間も理解がなかった。要するに、絵をやるなんて「人生の落伍者」ってことよ。

-人生の落伍者!!!(笑)


母親は大学に行ってちゃんと就職してほしかったわけ。僕、長男だしさ。時代を考えたら当然のことでしょう。母親の夢が崩れるから、絵をやりたいとは話しにくい。だから勉強するフリをして、絵やマンガを描くのを隠してた。


「そういう日常だったから、絵を描いてるのがとても後ろめたい。母親は嫌がってるから、親不孝になるわけよね」 Photograph by Hiroko Muto


そのころのテレビドラマで絵描きが出て来ると、ろくな奴がない。母はテレビを指さして「あんたも絶対こうなるよ」と。それは連続ドラマでさ。

-毎週登場するわけですね(笑)


うん。女の人を騙したり酒浸りだったりして。「マイナスイメージの連続」なわけ。

後年、田名網さんが新しいアトリエに移った時のエピソード。

母親は3姉妹で叔母たちが遊びに来たんだけど。僕の奥さんが「お母さん絵を全部裏返してる!」って。何してるのか聞いたら「見られたら恥ずかしい」って。本当に絵描きが嫌なんだなってその時思った。


母親が亡くなっても「まだいるんじゃないか」っていうトラウマがある。奥さんが近づくと今も「母親が来た」と勘違いして隠しちゃうもん。

田名網さんは大学で絵画を学ぼうとしていた。だが「就職も見つかるから」とデザイン科に進路を変更し、家族を説得したという。「芸術を学びたい」という確固たる意志があった。まさにロック。


大病を患い「自分のやりたいことだけをしよう」と決意


武蔵野美術大学在学中に日本宣伝美術会主催の日宣美展で特選を受賞。これを機に雑誌『マドモアゼル』(集英社)からアートディレクションの仕事が舞い込んだ。初めての経験だったが、映画を年間500本以上観ていた経験が役に立った。以後、エディトリアル(雑誌や書籍などの出版物)デザインなどを行うように。無試験で博報堂に入社。だがフリーランスの仕事が忙しくなり、2年で退社した。1975(昭和50)年には日本版『PLAY BOY』の初代アートディレクターに就任。

学生時代に賞を受賞し、以後華麗なる経歴の田名網さんでも「自分がやりたいこと」と「やらなければいけないこと」のギャップで悩んだことはあるのだろうか。


やっぱり嫌なこともやんなきゃいけないし。好きなことだけじゃ生きられないじゃない。


「好きなことをしたい」「徹夜で仕事する日々から逃れなければ」と思っていたが、激務の日々。44才の時、これまでの疲労により結核性胸膜炎で倒れて3カ月入院した。医師には「このままの生活だと死にますよ」と宣告されたという。


「そのころは母親も年だからさ。あんまり言わないわけ。だから好きなことだけをしようと切り替えた」 Photograph by Hiroko Muto


渋谷パルコ内「2G」で展示されていた「バタフライガール」は60年代に描いた原画を元に制作された。ちなみにアフロヘアなのは「当時流行っていたから」 Photograph by Hiroko Muto


超グラマラスなバディが圧巻! Photograph by Hiroko Muto


戦時下の記憶を思い起こさせる爆撃と1938(昭和13)年に発表されたアメリカンコミック『Nancy(ナンシー)』をモチーフにした作品は「2G」に展示されていた


理知的で穏やかな口調で丁寧に答えてくれる田名網さん。だが作品には、底知れぬエネルギーが渦巻いている。そのギャップが魅力的であり「この人をもっと知りたい」と思わせるのだ。一体どんな心情で作品をつくっているのだろう。



「自分の感情がどういう風に出てくるのか、ものによって違う。たとえばこういうもの(田名網さんの右隣にあるMEDICOM TOYとのコラボ商品『BE@RBRICK(ベアブリック)100% & 400%』)とペインティングはまた違うでしょ。あらゆるものに対して、いつも同じ気持ちではないじゃない?」 Photograph by Hiroko Muto


1つの作品には「生と死」「エロスとグロテスク」「日本とアメリカ」「あの世とこの世」などが混在し、底知れぬエネルギーを生み出して見る者を圧倒するのだ Photograph by Hiroko Muto


「何かをつくる」「表現する」のは「自分をさらけ出す」ということ。

仕事で文章を書いたり、趣味でダンスをしていたりすると、「どこかはずかしい」と思う自分がいる。60年以上第一線で活躍している田名網さんでも「恥ずかしい」と思うことはあるのだろうか。

恥ずかしいと思うことは、もちろんあるけどさ。でも、自分が持っているものをまるごと全部見せないとアートなんて成立しない。


サングラス姿の田名網さん&存在感バツグンのタコが異彩を放つ Photograph by Hiroko Muto

学生の時から60年以上もの間、第一線で活躍している田名網さんでも「恥ずかしい」と思うことがあるとは!親近感を覚えてしまう。だが恥ずかしいと思っても自分をさらけ出し、表現する。それがロック魂だ。


早さの秘密「迷わず即決する」


なぜさまざまなジャンルで多くの作品をコンスタントにつくることができるのか。田名網さんに聞いてみると「仕事が早いから」との答え。それは大学在学中から多くの仕事をこなし、鍛えられてきたからだろうか。


すると「いや、AかBで迷うことはない。迷うから遅くなっちゃう。即決でやるから」との答えが!Photograph by Hiroko Muto


仕事の依頼があって内容を説明してもらっている時に、ほぼ作品は完成していますね。一瞬のひらめきが一番おもしろいんですよ。あれこれいじくると、段々劣化してしまうんです。

-子供の時からそうですか?

いや、大人になってから。いくら考えたってできないことはできないしね。


adidas Originalsとのコラボ作品。少年時代に楽しんでいた紙芝居のドクロも重要なモチーフだ Photograph by Hiroko Muto


-筆とか道具にはこだわらないって本当ですか?


小学生が使う筆でもいい。3000円の筆とかで絵を描いてもさ、基本的に絵がダメだとダメだから。


迷わず即決する。その辺に早さの秘密があるのかもしれない。もちろんエディトリアルなど、多くの仕事を積み重ねてきたのもあるだろう。


「とにかく好きなことを好きなようにやるしかない」


田名網さんは1991(平成3)年より京都芸術大学大学院の教授に就任した。学生から進路相談を受けることも多いだろう。


-学生だけでなく「やりたいことをやりたいけど、勇気が出ない」という社会人も多いと思います。


「とにかく好きなことを好きなようにやるしかない」っていう一言しかない。

まじめに自分の仕事をコツコツ成し遂げる人、絵を描いて有名になりたい人いろいろじゃない。だから「ああしろこうしろ」って言ってもみんなに当てはまらないわけよ。


よく学生でも「スランプです」って言うんだけど「ふざけんじゃない」って言うのね。野球でいうと、イチローレベルの人がスランプって言うのはわかるのよ。

でも別に何もしない人がスランプって怠けてるだけでしょって。その境地に至るまでやってないのにさ、スランプもなにもないのよ。



取材後記

田名網さんは理知的&穏やかな口調で「要するにね」と、常にわかりやすく説明してくれるのが印象的だった。

学生時代から60年以上も第一線で活躍しているのに「絵を描くのに後ろめたさがある」

「自分の仕事に自信がない」というのがとても意外で驚いた。


散歩や模写を淡々と毎日行う。無意識に続け、習慣化している。これが作品のエネルギーにつながっているのかもしれない。

また、初めてやることをためらわず、“実験”してみるという柔軟な姿勢も作品のみずみずしさにつながっているのではないか。

田名網さんが「年を取ると、ダリのような画家でも執着心がなくなる」というインタビューを見た。執着心について質問してみると「生きることは執着すること」「執着っていうのはものに対するこだわり」「どうしても成し遂げたいという想い」と語ってくれたのが強く印象に残った。

「作品への執着とこだわり」「どうしても成し遂げる」という想い。

それが田名網さんの作品から感じるエネルギーを生み出しているのだろう。













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