Text By Fumika Matsumiya Photograph By Hiroko Muto
ある日「Rockな人はいないか……」とインターネットで調べていると、偶然内田正泰(まさやす)さんのはり絵に出合った。美しい色合いと心にしみる自然の風景。どこか懐かしいのに、スタイリッシュでもある作品に魅了された。正泰さんは現在96歳、独自の手法で作品をつくる現役のはり絵画家だ(まさにロック!)。これはぜひお会いしたい!
江ノ島電鉄「長谷駅」から徒歩1分ほど。閑静な住宅街に佇む「長谷壱番館 夢ギャラリー」へ。
すると、ギャラリー前でお客さんらしき女性グループを見送る人々の姿が目に入る。声をかけると、内田さんの長男の光(こう)さん・美枝子さん夫妻と判明。丁重に出迎えてくれる夫妻に恐縮しながら、中へ。
光さんによると、展示する原画作品を替えるのは季節ごとだけではないそう。「同じ季節でも、最初と最後で替えている」というこだわりだ。
……数分後。紺とえんじ色のバンダナを巻いた内田正泰さんが登場。「バンダナ、すてきですね」と言うと、正泰さんは「ハゲ隠し」とニヤリ。・・・・・・クールだ。
まずは正泰さんの原点・横須賀時代に迫る!
内田正泰 Masayasu Uchida
1922(大正11)年横須賀生まれ。1943(昭和18)年、横浜高等工業学校(現・横浜
国立大学)建築科を卒業。現・カネボウ食品PR課(旧ワタナベ製菓)に勤務後、独
立。試行錯誤し、10年の歳月を経て独自のはり絵スタイルを確立。以後、永谷園
「あさげ」「ゆうげ」「はま吸い」のパッケージデザイン、NHK「ふるさとネットワーク」のタイトルバック、「PHP」表紙などを担当。カレンダー部門にて日本印刷工業会長賞を8回受賞。「青雲(日本香英堂)」のCMなども。公式HP:内田正泰 はり絵の世界
横須賀の自然に感銘を受けた幼少期
内田正泰さんは「耳が聞こえにくい」ということで、紙に書きながら取材を開始。
-印象に残っている横須賀の風景は?
三浦半島には、海と山が両方ある。ちっちゃい川も。鎌倉と同じで谷戸(やと:谷間)がいっぱいあるわけ。谷戸に西日が当たると、反対側は夕日でいっぱい。片方は日陰。「夕日がある方はまだ遊んでいるんだな」「反対側は暗くなるんだな」って。自然を見て、想像する心が養われたんじゃないかなあ。
-両親や兄弟から受けた影響はありますか?
僕は4人兄弟の末っ子!兄1人と姉が2人いる。けど、同じ兄弟でも僕が一番(自然などを見ていろいろと)感じていたんじゃないかなあ。悲しい色やうれしい色。色彩を見て感動するというのは、ほかの兄弟はなかった。
親父は頭がよくて運動もできた。昔でいう旧制一校を卒業後、海軍の経理学校で教師をやっていた。絵も書もうまかったねえ。(テーブルほどの大きさの)こいのぼりをつくってくれた。色を塗っているのを見て「うまいなあ」と思ったね。
僕はお金のことは全然ダメ。感性ではり絵をつくっているうちに、みんながほめてくれて。(大声で)ほそぼそと生きています!(一同思わず笑う)。
-お母さんはどんな方だったんですか?
おふくろは女子美の第一期生なの。絵は見たことがないんだけど。
遠戚に東京芸術大学で講師をしていた人がいて、僕が小学校の時に絵具をくれたの。これが絵の世界に入った最初のきっかけかなあ。
鋭い感性を育むゆたかな自然や芸術に理解のある両親。ほかにも絵具をくれた遠戚の存在など、正泰さんは環境に恵まれたのだろう。しかしもちろん、それだけではない。
「感性に生きろ」生涯を左右する恩師との出会い
正泰さんが中学生の時、「夏休みに毎日1枚水彩画を描いていた」という。新学期に30枚の作品を美術の先生に提出すると、満点をくれたそう。
好きなことにひたすら打ち込む“Rock”な姿勢と集中力。恵まれた環境だけでなく、本人の努力があってこそ、才能が花開いたのだろう。
-横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)建築科に進学した理由は?
家(横須賀)から通えるから。
-ええっ!(笑)
慶応にも受かっていたけど、両親が「おまえは東京に行ったら何するかわからない」って(笑)。ハラハラしたんじゃないかなあ?
仲のよかった同級生が(横高建築科に)入ったから、「一緒に行こう」と思ったのもある。でも僕は胃が悪くて入院していたから、進学が1年遅れてね。同級生が先輩になっちゃった。
-戦前の大学はどんな感じだったんでしょう。先生は?
もう最高!フランスにある学校(エコール・デ・ボザール)で建築を学んだ中村順平先生がいた。フランス語ができないのに、現地の学校を二番で卒業したの。「夢を描け」って教えられた。ほかには「感性に生きろ」。
中村順平先生は「今に日本は戸が自動で開くようになる」って。何十年も前に世の中を見通していた。「でも、カラカラと手で戸を開ける方が人間的だよ」と。ロボットは涙が出ないだろう?悲しくても。
当たり前だが、「戦前も自由で先進的な考えを持つ人がいた」とあらためて思い知らされた。すばらしい恩師と出会い、「大学時代は勉強に打ち込んだ」という正泰さん。中村先生は著名な建築家でもあり、近代的な教育者としても知られていた。現在、中村先生の作品はみなとみらい線「馬車道」駅の壁面彫刻として残っている。
軍隊での事件を機に「なにかを残したい」と決意
1943(昭和18)年、正泰さんは横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を卒業後、海軍予備学生に。当時は「お国のために死のう」と決意し、入学した。しかし、感性に生きていた正泰さん。辻褄が合わず不条理な上官と接するうち、「段々と心境が変化した」という。そんな中、事件が起きる。
同じ隊の仲間がサーベル(長い刀)を持ち争う姿を見て、「(戦争に)勝てるわけがない」と日記に記載。それを見た上官が朝礼で正泰さんを呼び出し、何発も殴った。
翌日、病院で目を覚ました正泰さん。だが、片耳が聞こえなくなっていた。両親や海軍にいた親戚に「お前は軍人には向いてない。辞めろ」と言われたという。また、耳のケガもあり、正泰さんが戦争に行くことはなかった。
ー親戚は海軍に?
私の姉は海軍の軍人と結婚した。その人は航空母艦の通信官でね。みんなは逃げたらしいけど、白い制服姿で「艦と一緒に沈むのが人生だ」と言って沈んでいきました。
正泰さんが所属していた隊は激戦地・硫黄島に出陣し、多くの仲間が亡くなった。今、仲間に対して何を思うのだろうか。
生きている人間は必ず死ぬ。それは悲しいことだけど、しょうがない。だからそういうのをひきずって生きているよりも、前を見て仕事した方がいい。
残った命。「日本のために何か残ることをしたい」と正泰さんは決意する。
「10年は作品にならなかった」日々失敗を繰り返す
1953(昭和28)年、正泰さんはカネボウ食品(旧ワタナベ製菓)に勤務し、パッケージのデザインを担当。3年後に独立し、「アド、アートデザイン研究所」を設立した。正泰さんはデザインの仕事をしながら自分の時間を費やし、「独自の表現方法を模索していた」という。
正泰さんがはり絵を始めたのは、36歳のころ。横浜市の成人学校で絵を教えることになった。
「できるだけ生徒にお金の負担がかからないように」という要望を同市から受け、「新聞紙を使えないか」と手でちぎってみた。すると真っ直ぐではない、温かみがある線が気に入り「はり絵をやってみよう」と決意。当時、はり絵で自身を表現し作品をつくる人はほとんどいなかったという。
「筆で絵を描く人は何千万人もいるわけでしょう。だから僕は紙で表現しようと思ったの」と正泰さんは語る。師匠はおらず、ひたすら1人で試行錯誤を繰り返す日々。そして10年間後、ついに独自のスタイルを確立。
正泰さんは洋紙を手でちぎり、作品をつくる。絵の具は洋紙の風合いを損ねない程度に使用するという。はり絵に和紙ではなく、洋紙を使う理由を尋ねる。すると「洋紙は色が豊富で100種類ぐらいある。それに縦目と横目があって、切り方により線が変わるから」と正泰さん。
デザインの仕事は順調で報酬も高かった。「贅沢をしていたらダメになる」とデザインの仕事を辞め、はり絵一本に。横浜で成人学校(カルチャースクール)の講師などを務め、作品をつくり続けた。その後、永谷園の「あさげ」を担当。数多くの大企業から依頼が舞い込むように。
-作品の中でも特にこれが一番好きです。
子どものころ、家にいちょうの木があって。雨が降った翌日、庭が真っ黄色になったの。「うわー!きれいだなあ」と。家の落葉を見て「近所にある庄屋さんのいちょうはどうなったんだろう?」と見に行ったの。そしたら、こうなってたのよ。
音楽でいうと、黄色のピアニッシモ(極めて弱く)からフォルテ(大きく強く)になって。面積の変化と広がりに感動した!すごいなーと。だから作った。静かなバイオリンの音から大きなオーケストラの音に変化する。それと似ているね。
風景の変化を「音楽で説明する」正泰さん。鋭く繊細な感性な持ち主だとわかる。子どものころに感動した風景を「今も鮮明に覚えている」のだ。
「日の当たる部屋に住みたい」心の叫びが作品に
-作品をつくる上で光を大切にしているそうですね。 僕はね、以前東京の大森にいたの。1年中日が当たらない部屋に暮らしていたんですよ。5年か6年くらい。いつも「日が当たる部屋に住みたいなあ」と思っていた。だから作ったの。
そういえば、長男・光(こう)さんの名前にも漢字の「ひかり」が使用されている。かなりのこだわりがあるのは、間違いない。
「誰もやらないことをやろう」今でも僕はそう思ってる
-正泰さんのようにRockに生きたい。けど踏み出せない人にメッセージを・・・・・・
「苦労したい」と思うことだね。苦労したいという欲望がないだろう?その人は!
苦労をしたいと思いなさい。楽をしようとしたらダメ!苦労しないで偉くなろうなんて、思っちゃいけない。なんか新しいことをやろうと思ったら「誰もやらないことをやろう」という気持ちにならないとダメ。僕はいつでもそうだよ。今でもそう!
日本人は1枚の葉っぱや花びらが落ちるのを見て、文学や歌にする。日本の四季には、力があると思っています。落ち葉がある。掃けばいいじゃなくて。「秋だなあ」。花が一凛咲いた。ちょうちょが飛んで来た。「春だなあ」。心にしみ込むでしょう。
日本人は四季の移ろいを感じる。日本人の感性はすばらしい。ずっと日本をほめ続けて、死んでいこうと思う。
最後にお礼を言い、立ち去ろうとすると「記事はいつでるの?」と質問する正泰さん。
「11月です」と答えると「ああ、そう。期待しないで待ってる」と言い、ニヤリと笑った。
取材後記
内田正泰さんは言葉の端々に「鋭くてみずみずしく、繊細な感性の持ち主だ」というのが表われていた。特に、音楽を使って作品を説明してくれたのが印象的。自分の信念を貫き、10年を費やして独自のはり絵スタイルを確立した正泰さんは、まさにRock!だが同時に愛らしく、かわいらしい人柄に魅了されてしまった。100歳を超えても「日本の美しい風景」をつくり続けてほしい!
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