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専業主婦から80歳で起業!業界のタブーに挑戦する年商5億の不動産社長・和田京子

更新日:2020年7月28日



Kyoko Wada

1930(昭和5)年愛知県岡崎市生まれ。1945年武蔵野大学(千代田女子専門学校)国文学を卒業。79歳で宅地建物取引士(宅建)の資格を取得し、女性最高齢の合格者に。「世界一親切な不動産屋」を目指し、80歳で「和田京子不動産株式会社」を設立。「物件購入者から仲介手数料をとらない」など数々の新しいサービスを掲げ、業界のタブーに挑戦。2016年「第16回ニューエルダーシチズン大賞入賞」を受賞。 公式HP: https://www.wadakyoko.co.jp/

今回のゲストは専業主婦から80歳で起業し、“年商5億”という不動産社長・和田京子さん。現在89歳で「和田京子不動産株式会社」を経営している。


どういうきっかけを経て、80歳で起業したのか。社名に自身の名前が入っているのはなぜ?

・・・いろいろ気になりすぎる。とにかく直接うかがいたい!


諸事情により4カ月延期になっていた取材が、ついに実現することに。


JR小岩駅で降り、徒歩8分ほど。


住宅街を歩いていると、矢印&インパクトのある看板が!Photograph by Hiroko Muto


インターフォンを押すと京子さんがお出迎え! Photograph by Hiroko Muto

実は当初、昨年2018年秋に取材を行う予定だった。しかし、過労のため京子さんは体調を崩し1カ月ほど入院。その後、取材は延期になっていたのだ。現在は回復したそうで、本当によかった。

「なんでも一番になれ!」と育てられた幼少時代


「話す時に呼吸するのが楽だから」と酸素吸入器を付けてインタビュー Photograph by Hiroko Muto

京子さんは愛知県岡崎市出身。同市は徳川家康の出身地としても有名だ。京子さんやそこに住む人は三河武士の流れをくむ街として、誇りを持って暮らしていた」という。

-お父様は証券会社を経営されていたとか。


ええ。父は小学校しか行けず、教育には非常に熱心でした。「俺は岡崎で一番の株屋だ。お前は勉強でもかけっこでも、なんでも一番になれ!」と。一番になるために父と毎日6時に走ってました。

当時は教科ごとに先生がいて、いろいろな宿題を出すんです。そこで母は師範(戦前、教師を養成する学校に通っていた生徒)を雇って。宿題・予習選任ともう1名。常に家庭教師が3人いました。

-当時としてはめずらしいですよね。家庭教師が3人とはすごい・・・。当時、何をして遊んでいたんですか?

機会がなく、遊びませんでした。

「なんでも一番になれ」と育てられ、それを実行してきた京子さん。三姉妹の長女で両親や祖父母の期待が高かったに違いない。品のある佇まいや丁寧な言葉遣いからしっかりと育てられたのがうかがい知れる。

不動産との不思議な縁


-お父様から受けた影響はありますか?


当時、株に失敗した人は家や別荘を差し出すことも多かった。父はその査定や買取をしていたんです。よく一緒に家や別荘を見に行っていました。

慣れてくると、家の間取り図を書くことも。「段々と、外から見ただけで間取りがわかるようになっておもしろかった」Photograph by Hiroko Muto

少女時代の経験が「不動産会社を企業する」という、京子さんのキャリアにつながっているのが興味深い。本人はこの時はまさか起業するとは思っていなかったそうだ。やはり自分が経験したことの中に“キャリアのヒント”があるのかもしれない。

「多くの人々に助けられてきた」


1942(昭和17)年、京子さんが12歳の時に家族で上京。父が証券会社を畳み、「お国のために」と東京に軍需工場をつくると決意したのだ。

終戦の前年、秋の彼岸が過ぎたころ。甲府に疎開していた10歳の妹から「さむい」とひらがなで書かれたはがきが届いた。当時、疎開先には十分な暖房器具がなかったのだ。14歳だった京子さんは幼い妹を心配し、急遽甲府へ行くことに。代々木駅までは父が火鉢を運んでくれたが、とても重くて改札を通れない。

困って立ち尽くしていると、後ろから軍靴の音が近づいてきた。振り返ると、星章を2つけた士官の姿が。京子さんに行き先を尋ねた。「甲府です」と答えると、火鉢を持ってホームへ。

満員の車内まで火鉢を運び、「時間がないので甲府まで送ってやれない。気をつけて行きなさい」と言い、去って行った。

-通りすがりの士官さんが助けてくれたんですね・・・。


(涙ぐんで)今でもね、助けてくれた士官さんのお名前を聞いておけばよかったと思ってます。

甲府駅に到着し「火鉢を下ろして!」と必死に叫ぶと車掌が下ろしてくれた。戦時中、空腹でさまよっていると、おにぎりや水をくれた人がいたそう。「何度も助けられ命をつないできました」 Photograph by Hiroko Muto

命の恩人・正武さんとの出会い


女学校を卒業後、京子さんは武蔵野大学(旧千代田女子専門学校)へ。当時、同大学には東京大学の教授がアルバイトで教えに来ていた。「東大生が習うのと同じ教授に教えてもらえるのに魅力を感じ、進学した」とのこと。

学生時代、京子さんは通っていた古本屋で店主・和田正武さんと出会う。

戦後の混乱期、京子さんは流行り病の結核に。担当医が提案した新しい技法を受け入れ「自分が実験台として世間の役に立つなら」と手術を希望した。しかし、その手術は革新的な技法で助かる確立も低く、両親は大反対。


当時、手術するには家族の同意書が必要だった。そこで、知人だった正武さんが「それならば僕が署名する」と手術する直前に結婚。肋骨4本と左肺の上葉を削除する大手術は無事に成功した。

和服姿の正武さんと京子さん。「命を助けてくれた夫に感謝しています」(京子さん提供)

欠陥住宅と闘う


結婚後、正武さんは高校教師に転身。赴任先に転任するたびに何度も欠陥住宅に悩まされた。丘の上にあるため給水力が弱く「毎日断水する家」、本の重さで「床が抜けた家」など。 当時は戦後の混乱期で法が整備されていなかった。また、欠陥があっても不動産屋はきちんと説明せず、実際に住むまでわからなかったそうだ。

京子さん27歳。長女・洋子さんを妊娠しているころ(京子さん提供)

中でも大変だったのは、1965(昭和40)年に購入した「トイレが使用できない建売住宅」だ。当時、水洗は普及しておらず、バキュームカーによる汲み取り式トイレが一般的だった。しかし、設計ミスにより入居後に50cmホースが届かないことが判明!

区役所に陳情すると、不動産会社が「同額の家を用意する」と謝罪に来た。しかし、笑いながら謝罪する誠意のない態度を見て、「ほかの人に売りつけるのでは」と感じた京子さんは転居を拒否。


(左より)かわいらしい洋子さん&しっとりとした装いの京子さん(京子さん提供)

延長ホースを自分で用意し、バキュームカー会社も協力してくれ事なきを得た。しかし、それまでは娘が通う小学校や隣の人にトイレを借りていたという。トイレに行きたくてもいけない状況は本当につらかったに違いない。

少額の賠償金は悪路を舗装するのに使用。これをきっかけに、近所の人々とも親しくなれたそうだ。

55年を経て学生に


2007(平成19)年、京子さんが77歳の時に夫・正武さんが死去。介護を10年した後の出来事だった。

京子さんは気が抜けてしまい、毎日寝ていたという。すると、心配した孫の昌俊さんが「何か勉強してみたら?」と勧めた。京子さんは宅建の専門学校に通おうと決意。55年ぶりに学生になった。

-宅建を勉強しようと思った理由は?


子どものころから別荘や家を見る機会が多く、不動産に興味があった。欠陥住宅で悔しい思いをしたのもきっかけです。


「学生時代は戦争中。軍需工場で部品をつくらなくてはならず、勉強を続けられなかった。「だからずっと学びたいという想いが強くありました」Photograph by Hiroko Muto

通常、自宅から専門学校がある水道橋までは片道1時間ほど。しかし、150cmと小柄で華奢な京子さんは満員電車を乗り降りするのもひと苦労し、2時間かけて通学していた。ある時は「人に挟まれ、ずっと宙に浮いたままだった」とか!

通学するのは週2回だったが「うれしくて思わず定期を買ったんです」と笑う Photograph by Hiroko Muto

-55年ぶりに学生になって驚いたことは?


教科書に載っている“チャプター(章)”や“ステップ(段階)”など、カタカナ英語がまったくわからなくて。家族に聞いて勉強しました。

「また勉強できる」と思うとうれしくて、女学生時代のように黒板を消していたら先生に「黒板は私が消しますから。そんなことなさらないで」と言われたそうPhotograph by Hiroko Muto

クラスでは、2週間ごとにミニテストが行われた。「1mmたりともはみ出してはいけない」と思った京子さん。塗るのに時間がかかりすぎてテストが終わってしまったことも。そこで、家でマークシートを塗る特訓を行った。

もし、自分が55年を経て学生になったら・・・。

想像できるだろうか?

昔とは授業で使われる言葉も、テストの形式も違う。宅建だけではなく、ほかにも学ぶことがいっぱいあるのだ。

20代のクラスメイトからお茶に誘われることもあった。しかし誰かと話すと忘れそうで余裕がなく、断ったそう。「自分の年齢はクラスメイトの4倍。だから4倍やらなければ」とひたすら勉強した Photograph by Hiroko Muto

最終授業の日。東京に大型台風が直撃し、通学時に使用していた電車は運休に。しかし京子さんは洋子さんと一緒に動いている電車を乗り継ぎ、3時間かけて学校に到着。だが、授業はすでに終了している時間だった。

「もう誰もいるはずがない」そう思って教室に入ると・・・

なんと、そこには先生の姿が!

先生は生徒全員にお守りと鉛筆を渡そうと1人で待っていた。台風のため、教室に到着したのは京子さんただ1人。

-どうして学校に?


なんとしても先生に直接感謝をお伝えしたかった。先生は「授業の時間はとっくに終わっていたけど、誰か来たら悪いから」「来てくれてありがとう」と。

わたくしも先生も娘も、気づいたらいつの間にか3人で泣いていました。

わずか合格率16%!超難関の宅建に合格


試験当日。緊張し、後回しにすべき問題を先に解いてしまい、時間切れに。自己採点では「落ちた」と思ったそうだが、京子さんは初挑戦で見事宅建に合格した。

専門学校主催の合格祝賀会にて。当時79歳だった京子さんは女性最高齢の合格者として表彰された。ホットパンツ&ロングブーツ姿がイカしてる!(京子さん提供)

資格を役立てたいと、不動産会社に丁稚奉公しようと思っていた京子さん。しかし、履歴書に自分の年齢を書いている時に「誰が雇ってくれるのだろう」と我に返ったという。そこで昌俊さんは勤めていたIT企業を退職。2人で起業することを決意した。

80歳で起業!業界のタブーに挑戦

2010年2月、京子さんと昌俊さんは資金を出し合い「和田京子不動産」を設立。京子さんは80歳で新たなスタートを切った。

-社名はインパクトがありますね!


ずっと専業主婦だったので自分の名前で呼ばれることがなかった。だから名前で呼ばれたいと入れたんです。


制服をヴィヴィアン・ウエストウッドにしたのは、昌俊さんに勧められ「ヴィヴィアンのパンク(反骨)精神が気に入った」からPhotograph by Hiroko Muto

靴下、ジャケット&デニム、シャツ(京子さん所有)。全身ヴィヴィアンというこだわりだ Photograph by Hiroko Muto

世界一親切な不動産を目指すべく、「仲介手数料無料」「手続き代行無料」「24時間・年中無休営業」にすると決めた。不動産仲介業は通常、買主と売主両方から手数料3%を受け取る。物件が3000万の場合、手数料は片方のみでも消費税を含めて100万円近い。

しかし京子さんは「家は一生のもの。少しでもお客さんに還元したい」「その分、自分が2倍働けばいいから」と思ったそうだ。

資金がなかったので、看板は京子さんの手づくり。「かつて習っていた寄席文字を後世にしたい」という想いが込められているPhotograph by Hiroko Muto

初めての契約成立


起業したものの、2年間は収入ゼロ。京子さんは自信がなく、来てくださったお客さんをほかの不動産に渡してしまったこともあったそうだ。行く先を心配した家族と何度もケンカになった。しかし「最初の数年は修行」と考えていた京子さんは落ち込まなかったという。

設立3年目。若い夫婦を物件に案内したが、売主の説明は不十分で購入を急かしてきた。不審に思った京子さんは「辞めた方がいい」と夫婦に伝えて別の物件へ。京子さんを信頼した夫婦はその物件を気に入り、初めて契約が成立した。「生まれて初めて自分で稼いで自立できた」とよろこびを感じたそう。

京子さんは「仲介手数料無料」という業界のタブーに挑んだ Photograph by Hiroko Muto

すると同業者からは売り出し中の物件を売ってもらえないなど、さまざまな嫌がらせを受けた。成約した物件の売主の手数料を払わないといわれたこともあったが「払ってもらうまでは帰らない」と決して屈しなかった。

業界の古い慣習と戦う日々。するとある日、「YouTubeで会社の宣伝動画を観た」というテレビディレクターから出演依頼があった。動画は昌俊さんが宣伝にとアップしたものだ。放送後、お客さんが殺到し、年商5億に。

現在は高校教師を定年退職した洋子さんも加わり、より万全な体制になった。

-「Rockに生きたい」「でも今一歩勇気が出ない」という人にメッセージを。


やりたいことがあったらおやんなさい。もし何かうまくいかないんだったら、自分が変わる。年代の違う人ともね、一緒にやってみることです。


Photograph by Hiroko Muto

取材後記

学べるということによろこびを感じ、ただひたすらに勉強する。

先生にお礼を伝えたいと思えば台風をもろともせず、3時間かけて学校に行く。

京子さんの「学びたい」「お礼を伝えたい」という純粋な心。そして勇気と行動力に深く感銘を受けた。

また、 “自分の信念を貫くロックな魂”だけでなく、“古い体制を覆すパンク精神”も持ち合わせていると感じた。

京子さん・洋子さん・昌俊さんの三世代体制になった「和田京子不動産」。陰ながらますますの発展を祈りたい!

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